最近読んだ森田真生という人の『数学する身体』という本がなかなか面白かったです。
後半のチューリングの話(1948年にニューラルネットワークによる機械学習みたいな構想に言及してたとか恐ろしい逸話がたくさん)、岡潔の話もなかなかですが、前半駆け足で語られる近代以前の数学史のところが非常に面白かったです。
体を使った数の数え方、10進法の非効率と必然性、数字のできるまで、物理世界と直観から離れた数学世界の形成にどれほどの長いプロセスがあったか...
いま日頃当たり前に使う記号や道具、メディアがなかったとき、人の認識のあり方がどれほど異なるものになるかについて想像させられる本が好きです。
そういう想像にはいくつかの経路があると思います。歴史をたどること、異文化をまなぶこと、子供を観察すること、動物を観察することなどなど。言語学とかもそうですね。
小説以外の本を読むときは、ガッツがある限りはそういう本を読むことにしてます。
そういう本って、たくさんあると思いますが、マクルーハンとか、レヴィ・ストロースとか、白川静とか、そういう人たちの本です。歴史書とか。
(で、ガッツがないときはとりあえずニュース雑誌とか時事評論とかゴルゴ13とかを読みます。さらにガッツのないときはFacebookやネットのニュースを見てますね...ほとんどのときはまったくガッツがありません...)
『数学する身体』の話に戻ると、音読しかなかった時代の話(色々なところで言われることですが)とか、体や物を使った計算のこととか出てきます。
物を使って数を数えるというと、小学生の頃に読んだ『漫画人物日本の歴史』の空海の巻を思い出します。空海が岩穴に籠ってお経を唱えてると大日如来が見えるんですけど、そういうときは数珠をたぐってお経の回数を数えてるんですよね。
たしか上のケタを数えられる(?)特別なタマも付いてるんでしたっけ?あの色の違うやつがそうかな?
数珠を使ってる数を数えてると、それは身体的行為なのは誰にも見えるしもちろん自覚もできるんですが、そもそも人が純粋に「頭の中だけで」やっていることって、どのくらいあるものでしょうか?
正確にこういう表現ではないですが、『数学する身体』にはこういう問いかけを誘う箇所がたくさんあります。
話飛びます...
太鼓のメロディーはしばしば「口太鼓」で唱えられます。
口太鼓で伝えられ、口太鼓で思い出し、口太鼓と共に、というより口太鼓「で」叩くので、叩いているときはけっこうみんな口が動きます。
ギニアの人から、わざと口を動かさないというコツも聞いたことがありますが、そんなことまで考えるくらい、放っておけば口は動きます。
えーと、ここからが今回書きたかったことなんですけど。
言えないものは叩けない(めちゃくちゃに叩けても、2度同じフレーズが叩けることはないと思います)し、他人の速いフレーズも、言えないものは聴き取れません。
そして基本的には言ってるそのままの感じの音色が出ます。が、これはなかなか分かりにくいです。
上手い人の口太鼓とその人の太鼓の音は、音としては必ずしも「似てない」からです。
「トン・トン・トン・トン・パン・パン・パン・パン!」という冴え渡る音色を出す人が、これを「ジギジギジャガジャガ」とか言ったりします。
「?!!」
でも実はその人の体は「そのように」太鼓を鳴らしてます。
その人にとってベストな口太鼓の「言い方」は、主に2つのロジックからかなり必然的に決まっていると思います。
1つは、速く言えることです。
上手い人が誰も「トトパパトトパパ」などと言わず、たとえば「ビディパタビディパタ」とか「ピリパラピリパラ」とか言ったりするのはそのためです。
これはダブルタンギングと全く同じ発想です。
ちなみに、単純に速く言えるということの他に、数珠と同じく触知的な数えやすさもメリットになるのかなと思います。触れるからこれとこれが区別できて数えれる、ということです。
ダブルタンギングができてはじめて舌は2を触れるようになります。
とりあえず、言えないものは叩けないし、言えないと聴き取れないので、初心者の人でここでつまずいてる人は多いなーと思います。
まずは先生の真似すればいいだけなんですけどね。
まずは先生の真似すればいいだけなんですけどね。
もう1つは、発音するのになるべく口周りの緊張が必要ない音がいいということです。
舌とか喉とか。口の中とか。の筋肉。
意識してみるとすぐわかりますが、「ト」とか「パ」とか言うのはかなり筋肉使います。
口太鼓が緊張を伴うものだと、その緊張は太鼓を叩くたびに自動的に呼び起こされてしまって、口周りが緊張し、首やら腕やら手やら色んなところも一緒に緊張します。
なのでだいたいは、それをなるべく減らそうとします。
なのでだいたいは、それをなるべく減らそうとします。
口太鼓は、その人が影響を受けた先人の口太鼓を取り入れながら、その人の体が一番いい状態で太鼓を鳴らせる「言い方」にまで自然に練磨されていくのだと思います。
口太鼓にはその人の身の入れ方・脱力の仕方が畳み込まれてるといってもいいんじゃないでしょうか。
言ってる音がそのまま出る、と書いたのはそういうことです。
ていうか、叩かなくても、言わなくても、イメージするだけで口や喉の筋肉はわずかに緊張しますよね。太鼓のメロディを純粋に意識の上だけでイメージすることは難しいです。
高橋悠治さんの本にも何やらそういったことが書いてあった気がします。
古代インドでは心は喉にあると考えられていた...だっけ?そんなことも。
素手で(広義の)トーキングドラムを叩いていると、じっさい喉に心があるような気持ちもするし、手が喋るような気持ちもします。
これがやめられない理由かなー。
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